ある学校のガーディアン(学校の植木の世話をしたり何かが壊れたら直したり、なんでもできる学校に欠かせない人物)ドリス。ここはモロッコだからモロッコの言葉しか使わない、と言っていつもデリジャで話してくれる。しかし、残念ながらまだほぼ理解はできない。なんとなくわかったつもりになってコミュニケーションをとっている。
以前学校の敷地内にある彼のお家で、おいしいシバのお茶とお母さんの手作りクッキーやホブスをご馳走になった。それ以来、ここの学校に来ると、ちょとだけ彼のそばで仕事を見ている。最近は顔を見かけるとしゃがれた声でやたら「ジトゥンベリーヤ!」と言ってくる。オリーブ=ジトゥン以外意味はよくわからなかったが、同じように「ジトゥンベリーヤ!」とあいさつのように返していた。しばらくして他の先生に聞くと「田舎のオリーブ」という意味らしく、「ドリスはそれをいつも食べているから体が丈夫なんだ。」と教えてくれた。今もドリスとのあいさつは「「ジトゥンベリーヤ」である。
ここの学校にはオリーブやオレンジの木がたくさん植えられている。バラもきれいに咲いている。グランドの脇には畑もある。この日はオリーブの実を採っていた。家でオイルにしたり漬けたりして食べるそうだ。学校にある植物は、全て彼が毎日様子を見て、手をかけて育てている。
その様子をみて、日本の森を思った。日本の国土面積の約7割は森である。そしてその4割が人の手によって植えられた木だ。戦後、日本の復興のために多くの木が切られ、人によって建築材となる杉やヒノキなどの木が植えられた。本来は人が木を植えた森は、そこに人が入り、木を見て、どの木を生かすか考える。木がより太く大きく伸びるように枝を落としたり間引いたりしなければならない。
しかし、現在では単価の安い輸入材が建築材として多く使われている。そして手のかかる日本の森の多くは放置されていた。木は間伐されることなく過多となり、地面に日光が届かない森も多くある。そのことによって土壌がやせ、木が大きく太く育たなくなり、本来の森としての機能が失われている森が多くある。しかし、ここ数年、そんな森に少しずつ人の手が入り、多くの地域で木を育てる試みが始まっている。海を守る漁業組合の人が海のために森を活性化する活動をしたり、地域の子どもたちと一緒に森に入り、間伐をしたりする(木を間引く)イベントもある。
「育てる」
そのために人の手をかけるって何でも一緒なのだと思った。何かを育てようと思ったら、毎日その様子をみて、小さな変化を感じながら、太く、大きく伸びてほしいと願い、ときにはじっと待ち、必要なときには必要な分だけ手をかけなければ育たないのだなと、
ドリスの仕事を見ながらそんなことを考えていた。